学校での読み聞かせについて
月刊H誌をまだ読んでないことをあわてて思い出して手にしたのが、おおよそ2週間前、それからこのことについて書こうか書くまいかしばらく考えていた。書こうと思った動機はやはりこういう記事、発言にたいしてなるべく意見を言いあいたいと思ったこと、書かないでおこうかと思ったのは個人的な攻撃のようになると嫌だと思ったからだ。なにがそんなに気にかかったとかというと、月刊H誌のなかの特集「学校で本を読み聞かせるということ」の中にボランティアから見た対談があり、ボランティア3名と児童文学者1名の座談会記事のことだ。そのなかの児童文学者Sさんの、学校における先生が子どもたちに本を読んでやることが、どんなに大切かということからの続けての発言、〜前略<先生は、それほど大きな影響を子どもたちに与えていく職業をお選びになったのだから、自分に本の知識がないのであれば、とにかく心を開いて、私はばかである、たすけてくれと、近くの公共図書館員に協力を求めて欲しい。>後略〜の記事だ。児童文学者なのにずいぶん言葉が乱暴、まあ、それはさておいても、たしかに教師を職業とする者にとって知らないからと済まされることではない。これは別に読書に限らないと思う。でも、知らないことは<ばか>ではない。けれど、知らないから公共図書館員に<自分は知らない、ばかだから教えて欲しい>ということではない。まず、どの学校にも本の好きな先生はいる。その先生たちに教えを請うこと、(これは数少ない学校司書の存在も含めて)、自分たちで勉強していくように勧めること、そのために公共図書館員の力をかりること(もっとも、公共図書館員といったって?!という人がたくさんいるし、制度的にもその人たちは司書でない場合が多くなっている)。それこそ経験豊かなこの児童文学者、編集者に聞くことも良い(但し、その人は編集者、児童文学者としてだが)但し、をつけたのは子どもたちの読書について考える時に、読書は本とそれを読む子どもの関係があることを忘れてはならないからだ。だからこそ、それを仲立ちするおとなが必要になるのだと思う。
残念ながらこの発言からは、子どもたちの実態や学校での教師の現状を知らないのでは、だから、こんな暴論を書くのだろうと思った。私は先生たちの忙しさに同情しようとは思わない。同情ならいくらでもできるからだ。そのなかで一生懸命に子どもたちと日々暮らしていっている教師を知っているからだ。あらゆる現場のなかで、自分たちの手と足と頭を使って生きている人を大切にしたい。学校もそうだと思うし、その中の読書教育もそれではじめて成り立つ。おとな、教師、子どもたちの信頼関係があってはじめて成り立つのでないか。現実はある子どもにとってナルニア物語かもしれないし、ある子どもにとってゾロリかもしれないのだ。けれど、それは固定されたものでなく、流動的なものだ。だから子どもたちには橋渡しをする信頼するおとながどうしても必要なのだと思う。学校においては教師と学校図書館司書、そして、ボランティアの順だと私は思っている。
「本を読む子は良い子」「本を読まない子はしょうがない子」と思っていないだろうか?「自分たちは良いことをしている」と思ってはいないだろうか。3人のボランティアの人たちの発言の確かさのなかで、児童文学者の発言には変な良書主義がチラチラと見えたのは私だけだろうか。
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