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2007年8月30日 (木)

ショック!アクセスがなくなる

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 「アクセス」正式名は「書肆アクセス」、郷土史などに興味のある人なら行ったことがあるかもしれない。地方や小出版の本の問屋さん「地方小出版流通センター」が扱う本の店売りのお店。だから、私みたいな本屋が行く所なのだが、ある意味では本屋でもあるので、個人が買いに行くことも出来る。私たち仲間の間では、移転するかもしれないというもっぱらの話だったのだが、8月21日の朝日新聞には11月17日で閉店という記事がでていた。会留府と創業が近い、店の大きさもほとんど同じ。神田の少しはいった所にある。会留府は児童書の専門店なので大型の絵本などもあり、カラフルな店内だけれど、「アクセス」はどちらかというと地味で重みのある本がびっちり並んでいる。
 ここ近年お店が振るわないという話は聞いていた。でもそれは「アクセス」のみならず、どこもここもどんどん売り場面積が大きくなり、ビデオなどのレンタルと一緒になっていたり、昔からのいわゆる町の本屋がなくなりつつある。東京近郊の本屋は、もちろん取次ぎから本を仕入れるわけだけれど、お客の注文いかんによっては、あちこちの取次ぎや、ことによっては大型書店から買うことすらある。そんな取次ぎや古書店や、もちろん新刊書店が集まっているのが神田神保町だった。神田村とも言い、私も取り次ぎへ行った帰りにはちょっと寄って、忙しいと言いながら知らないたくさんの本をみるのが楽しかった。
 やはり岩波書店などの扱いの難しい出版物を扱う「スズキ」という取次ぎがなくなってから、神田村の様子が変わって来た。ビルができ、再開発とかのかけ声が聞こえてくるようになり、小さな本屋がうろうろするのがめっきりへってしまった。そして、取次ぎの日昄が西葛西に移って拍車がかかった。「アクセス」にもすっかり本屋が来なくなったという話は聞いていた。私もなかなか行くことが少なくなった。定期の本をお願いしてあったので、宅急便で送ってもらうことが多くなった。つまり、一般のお客様と同じように、現物を手に取ってみることが少なくなってしまった。
 ここ近年全国で1000店近くの本屋がなくなっているといわれている。小、零細本屋、つまり街の本屋だ。本という文化を扱う本屋、本屋でなく書店、どこへいっても同じ本が並んでいるマンモス書店ばかり、それはそれで良いとしても、新しいものをつぎからつぎへと追っかけているうちに、なにか取り返しのつかないようなものが指の間からこぼれ落ち、視野から落ちていくのではないかと不安に思うのは私たちばかりだろうか。
 それにしても「アクセス」がなくなるのは大ショック。

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2007年8月29日 (水)

しろいクマ ちゃいろいクマ

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「しろいクマ ちゃいろいクマ」
スヴェトラーナ・ペトロヴィック・作
ヴィンセント・ハーディー・絵
ゆづきかやこ・訳
小峰書店 本体1500円


 アリスはおばあちゃんから茶色のクマのぬいぐるみをもらいました。もう一方のおばあちゃんは白いくまをもってきてくれました。色が違うだけの同じクマです。アリスは両方と楽しく遊びましたが、おばあちゃん同士は自分の持って来たクマのほうがアリスはお気に入りだとゆずりません。そんなことはないのに、アリスはすっかり途方にくれてしまいました。おばあちゃんの主張はぬいぐるみのクマにも伝わってクマたちはけんかをはじめてしまいます。とうとうアリスは別々にしてかたずけてしまいます。よくあるお話です。おもしろいのは表表紙の見返しではけんかをしているクマの子どもたち、裏表紙の見返しは仲良くなったクマの絵です。それはしろいクマと茶色のクマだけではありません。お人形たちも他のおもちゃたちもみんなそうです。
 それにしてもおばあちゃんたち、つまりおとなってどうしょうもありませんね。自分のエゴむきだし、気をつけたいものです。

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2007年8月28日 (火)

キスのおまじない

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「The Kissing Hand」
キスのおまじない
ぶん/オードリー・ペン
え/ルース・E・ハーパー&
ナンシー・M・リーク
ほんやく/いりさわ より
アシェット婦人画報社 本体1400円


大きな月を背景にアライグマの子どもが母親に手を差し出している絵、チェスターは学校へ行きたくないと母親にうったえます。お母さんはチェスターの手のひらにキスをします。これは家にいると同じ気持ちになる安心おまじないです。キスのおまじないのせいで、どんなにほんわかした気持ちになるかということが描かれていて、そのおまじない「キッシング・ハンド」をしてもらったチェスターはすっかり元気に学校へ行くことができました。
 おまじないで日本の子どもに有名なのは「いたいとこ、いたいとこ とんでいけ!」とか「ちちんぷいぷい・・・」とか不思議とおまじないで安心するのはどこの国の子どもも同じです。でも、この絵本ではおまじない「キッシング・ハンド」は子どものおまじないだけではないようです。おはなしのとおり細密に絵は描かれていますが、とてもやさしい気持ちになる絵本です。(訳でおめめというような幼児語は使う必要がないようにおもいます。チェスターは学校へ行っているのですから)最後のフクロウ先生と動物たちの夜の学校、文字のないページはとても素敵です。
 ところで残念ながらとうとう今夜は曇り空で、皆既月食はみることができませんでした。この絵本の月は丸くて大きくて、心理描写に一役かっていて、この描き方も素敵です。

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2007年8月27日 (月)

ぼくたちは、いつまでも

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「ぼくたちは、いつまでも」
関屋ただし 作
ヒロミチト 絵
そうえん社 本体1100円




 4年生の安彦は太っているので、みんなからブッチーとからかわれ、すっかりくさって毎日を送っている。2学期の席替えで安彦の隣の席にきたのは車イス生活の神山くんだった。神山くんは筋肉が縮んでいく病気だ。はじめは歩けたのだけれど、それもできなくなって今は車イスの生活、介護補助員の古田さんがお世話をしている。けれど、古田さんのいない時、神山くんは安彦にいろいろと命令する。たしかに安彦は神山くんのめんどうをみてほしいと言われて、神山くんの係になったがめんどくさくて腹をたてていた。
 神山くんとの学校生活がはじまった。そして、 いやでも生命を維持していくために訓練をしなければいけないこと、それは本人だけでなく世話をする人もつらい気持ちにさせる、だからがんばる神山くんの姿から、安彦はただ不平を言ってばかりいた自分を考えようとしていく。古田さんがいないときにおしっこがしたくなった神山くんの世話をするところは、いままでの子どもの本にはあまりなかった描写だ。ともだちだからとおしっこをさせて欲しいと要求する、きみはともだちだからと言う神山くんの言葉、しびんを持っておしっこをするのを手伝う安彦。次にはブッチーと同じようにあだ名が欲しいといわれて戸惑う安彦。2センチ5ミリもけんすいができたと先生にいわれてうれしかったこと、みんなと同じにバカにされたり、いじわるされる存在でありたいという神山くんとのかかわりのなかで、安彦自身がかわっていくことがていねいに描かれている。
 生きてるってことは、その命を生かし切ることだという最後のところはいらなかったのではないかと思う。ひとつひとつのかかわりのなかで、安彦が成長していく、安彦の視点で書かれていたのが、おとなの視点になってしまった。それはちょっと残念だ。

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2007年8月26日 (日)

名探偵アガサ&オービル

「名探偵アガサ&オービル」
ローラ・J・バーンズ/
メリダ・メッツ作
金原瑞人/小林みき・訳
森山由海・絵
文渓堂 本体各900円
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本格的ジュニア・ミステリィーになっているが、本が好きな子どもなら5年生位からじゅうぶんに楽しめる。久しぶりにへんなホラーとか魔法がないおもしろい推理小説を読んだ。
 アメリカのミドルスクール7年生アガサ・ウォン、とても行動力のある元気な女の子。一方、オービル・ライトは数学と科学については天才的な才能を持っているのだが、人とのかかわりがうまくできない男の子、アガサの同級生。オービルが人との関係をうまくとれないのはアスペルガー症候群をかかえているからだ。でもアガサはオービルが何を知っているか、何を考えようかを知っている。オービルがそれを自分の言葉で表現するするのを待っていられる子どもだ。アガサ自身は父親が中国系のアメリカ人、母親はアイルランド系のアメリカ人で家にいないためおばあちゃんと暮らしている。おばあちゃんは幻のトリクシーを観光名物にしている町で土産物屋を経営しているしっかりものだ。オービルのアスペルガー症候群という個性をうまくつかって謎をといていく、もちろんそれをひきだすのはアガサだ。この二人の事件解決のための会話、掛け合いがおもしろい。
 もうひとつこの物語をおもしろくしているのは、取り巻いている人たちの背景がきちんと描かれていることだ。たとえば1巻のアメフトの大会に応援のためのハリボテ、怪獣が火をふいて火事になってしまう事件をいえば、アガサやオービルの行っている学校は決して豊かな家庭の子どもではなく、対する学校はブランド中学校。そこへ行っているサマンサの父親は昔は銀行の頭取だったのに、いまは倉庫の管理人、サマンサはこのことを学校の友だちに知られたくなく、放火をすれば父親はクビになって、また良い仕事につくことができると思っている。オービルはしっかり観察して親子である証拠のおでこの生え際の形、肌のいろ、手のこと、数値的にも実証してみせる。それをうまくつたえられないが、アガサがそれを引き出す。オービルの父親はショーのための泳ぐブタの飼育係だ。アガサはオービルの父親から人の気持ちを教えられる。そして、ゲームセンターにたむろす子どもたち、テレビの世界、アメリカのかならずしも良い状況で生きているわけではない人たちをきちんと描いている。それがこの物語に厚みを与えている。
 9月には4巻目がでるとのこと、暑い夏でも「なんかないかなぁ!」と探している子どもからおとなまでおすすめ。

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2007年8月23日 (木)

ヤワイヤ号の冒険

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「手づくり ヨットで日本一周6500キロ」
 ヤワイヤ号の冒険
関屋敏隆・絵と文
大浦範行  川村章人・原作
小学館 本体1700円




1961年4月京都市内の山仲間の高校生が集まって、ヨットで日本一周の冒険にチャレンジしました。その航海の様子が書かれた「ヤワイヤ号の冒険」を原作として絵本化されたものです。朝日新聞社から刊行されたその本は残念ながらもう絶版で手に入りませんが、作者は5年かけて絵本にしました。作者はこれまでにも南極大陸を探検した白瀬中尉や北方探検の間宮林蔵の冒険を絵本にしています。
 これまでのように型染めの手法ではなく、その持ち味を生かしながらも、海の物語なので、明るくスッキリとした描き方が成功しています。高校生たちがまるっきり海のことには素人なのに、自分たちの力でヨットを造り、それを操って小浜を出航、日本海を北に向って進み、津軽海峡をとおり八戸、銚子と今度は太平洋を南下し九州をまわり、もとへ戻ります。小浜を出たのが6月、11月には銚子で風と波に阻まれ、しかたなく陸に上がって一休み、6月にはヨットの整備をして7月に出航、9月に小浜に戻ってきました。その間海でおこったさまさまなこと、あわや!と難破しかかったこともありますが、「冒険クラブ」の人たちはあきらめずに、ともかく続けて行きます。おもしろいのは一人の人が航海する「太平洋ひとりぼっち」の堀江さんようなやり方でなく、何人かいろいろの人が途中で交代しながら航海したことです。ケンカもしたとのこと、ユーモラスな絵が描かれています。
 ヨットを造る場面からはじまって、地図、海のこと、そこで働く人々、海の生物など、航海で出会ったこと、人々、その他の生き物、たくさんのことが時にはユーモアも交えて描かれているのはとても楽しく、画家の力がみなぎっている絵本になりました。家族で、学校で、友だちとみんなで楽しむことのできる絵本です。

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2007年8月22日 (水)

久しぶりに出かけて行った

 いろいろな勉強会の集まりにでなくなって何年になるだろう。仲間の人たちと続けている「児童書専門店連絡会」だけはまず、休むことがなく出かけて行く。店の切り盛りをしているわたしにとっての情報源でもあり、一種の貴重な息抜きでもある。けれど、それ以外すっかりあしがとおのいてしまった。理由はなぜかいつのまにか運営も引き受けるはめになったり、本屋という特殊な?仕事をしていることもあり、常に人と接しているので、これ以上気をつかってくたびれてしまうのはだめという本音でもある。けれどそうこうしているうちに、自分自身のまわりが固定化され、非常に狭いものになってきてしまう。これはちょっとまずい。そうでなくとも頭が固くなって、新しいもの、新しいこと、新しい人を受け入れ難くなってしまう。そうするといつもいつも店と、経営との間を堂々巡りしてしまい、いつしか気が重くなってしまう。
 と、いうことで、今日は学校図書館研究会の千葉支部へ出かけて行った。久しぶりに、はじめての人もふくめていろいろな話が出来た。収穫はそれだけでない。2時間ただひたすらに「Library NAVI」の作り方を教わって頭と手を動かして来た。準備をしていかなかったので、2時間ではできあがらなかったが、作り方の理解ができたのはうれしい。今日は「会留府のごあいさつ」というテーマにしたけれど、いろいろなテーマで応用して作ってみたい。これは神奈川県立相原高校司書の松田さんが考えたものだそうだけれど、どんどん工夫してつくっても良い(これを進化といっているけれど)のはうれしい。ITを使ったものだけでなく、小さな手づくりの情報ツールは会留府みたいな小さな店にとっても充分な力になると思う。関心のある方はLibraryNAVIアーカイブを。
 外は下から熱風がふきあげてくるような暑い日、みんなで食事をして解散。
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「天徳寺の夏雲」

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2007年8月20日 (月)

「カールソン」3巻目

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「やねの上のカールソンだいかつやく」
リンドグレーン作
石井登志子・訳
岩波書店 本体2200円




 リンドグレーン作品集、カールソンシリーズも3冊目になりました。屋根の上に住んで、小さなプロペラをつけて飛んでまわるカールソン、今回も強盗をやつけたり、大活躍をします。「うつくしくて、じつにかしこくて、ぐあいよくふとってて、ちようどいい年ーP27」カールソンはあいかわらずのうぬぼれやです。一方スヴァンテソン家の一番下のちびさんリッレブルールはとてもやさしくて、どんな時でもカールソンとの友情を大切にします。はじめはカールソンの自分勝手さとずるさに腹をたてているのに、読み進んでいくと、リッレブルールとカールソンは背中合わせ、そのどちらももっていて、腹を立てたり笑ってみたりの自分自身に気がつきます。
 リンドグレーンの作品には人間のもっている明るい面と悪の面とがきちんと描かれていて、それが、作品に深さを与えています。素朴にあくまで楽しく、けれど、ちょっぴりつらいところも描かれていて、人生の真実がそのなかには込められていて、子どもからおとなまでその時の自分にあわせて読むことができるのです。
 それにしても、もう箱はいりませんよ。ひろく読者に渡るよう、定価もふくめて、ちょっと一工夫をして欲しいとおもます。


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2007年8月19日 (日)

ちょっと変わった魔女の子ども

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「魔女の愛した子」
マイケル・グルーバー
三辺律子・訳
理論社 本体1500円




深い森の中に赤ん坊が捨てられていた。赤ん坊はどんな子でもかわいい。けれどこの子はひどく醜かった。この魔女は決して悪い魔女ではない。ほうきに乗ったり、人を食べたり、悪しき魔法を使ったりはしない。この魔女は命の均衡を保つことをしている。そのために、ときには少し魔法をつかったりするが、一日のほとんど命の営みに心を澄ませ、その手だてを考えることだった。魔女はこの醜い赤ん坊に瘤とか固まりの意味があるランプという名前をつけてクマのイスルを乳母にして育てることにした。
 ランプは元気に育った。ランプのまわりには忠実なイスルのほかに、ネコのファランスをはじめとして、たくさんの動物がいたが、それだけでは満足できずに、森に浸食してきた人間の世界にちかずいていく。魔女からは禁止されていたが、力がついて反抗的になってきたランプはその禁止の意味がわかっていない。人間世界からは魔女はあってはならない悪しき存在、まして、魔女は子どもを食べると思われていたし、そして、ランプは酷く醜い、それが何を意味するか、当然人々の襲撃にあう。それにもうひとつ禁止されていたこと、ランプは魔神を呼び出し、しかも、その計略にまんまとひっかかってしまい、追われる身になってしまう。
この物語は これらのエネルギーあふれる描写をドキドキしながら読むだけでなく、この物語の中にはたくさんの昔話がちりばめられていてそれが奥行きをあたえている。「赤ずきん」「ヘンデルとグレーテル」「ラプンツェル」「眠れる森の美女」そして、最後にはランプの魂の救済「青ひげ」と「ルンペンスツェルトヘン」、グリム童話そのままではなく、そのモチーフがいかされているのだがそれがとてもおもしろい。
 この物語にあたって書かれている「魔女でもあり、母親でもある、世界中の女たちに捧げる」献辞、たしかにすべての子どもたちの母親、女は魔女かもしれないと、そのひとりである私自身も含めてうなずけることでもあった。女はもっと深く自分の魔性を自覚すべきなのかもしれない。
 

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2007年8月17日 (金)

海からのおたより07.8夏休み講座

昨日のつづき
 陸の貝、代表的なカタツムリのお話をしましたが、今回は海の貝のおはなしです。
海からのおたより2007年8月・夏休み子ども講座 3の巻


 まき貝と二枚貝

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 「美しいまき貝 ホネガイ」

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「二枚貝オオマテガイ」



わたしたちが海辺などで貝を見つけたとき、そのかたちからまき貝と二枚貝に大きく分けることができます。サザエやホラガイのようにまき貝は“らせん”にまいた「から」をもっています。「ふた」をもつものももたないものもあります。ウミウシやカタツムリもこのなかまにはいります。
二枚貝はその名のとおり二枚の「から」でからだをおおっています。からだのなかに海水を取りこんでその中の栄養をこしとって生きています。アサリやハマグリのような二枚貝はそのようなからだのつくりから陸の上では生活できません。
貝の多くは卵を産みます。卵も種類によってさまざまですが、卵からかえったあとはプランクトンとして水の中を移動します。けんびきょうで見るとまき貝と二枚貝は発生したばかりではよく似ているそうです。やがて「から」ができて赤ちゃんの貝になります。カタツムリのなかまは土の中に卵を産みます。そして卵から赤ちゃんカタツムリが生まれます。おもしろいのはタニシです。タニシはおかあさんが赤ちゃんの貝を産みます。
 
  おわりに
浜辺で貝がらをひろうだけでなく、ちょっと貝の世界をのぞいてみてください。かれらもわたしたちと同じりっぱな地球上の生きものです。貝たちはなぜあんなにうつくしいのでしょう。なぜあんなにふしぎなかたちをしているのでしょう。それは・・・・だれにもわかりません。でも、きびしい環境の中で進化してきた歴史がそこにきざみこまれています。
もし、貝をひろったら、採った日付と場所を記録しておきましょう。たちまち「貝がら」から「標本」になります。標本はタイムカプセルです。何年かたってからも「この貝」をひろった「あの日」の記憶が標本を見るたびに思い出されることでしょう。そして貝だけでなくほかのものにも目が向いてくることと思います。自然を観察することは「自分なりのものさし」をもつことにつながります。わたしもけいけんしたことですが、北海道の海でも、沖縄の海でもふだんから親しんでいた貝のなかまに出会うと感動もひとしおです。
絶滅危惧種や外来種の問題、ゆっくりしているように見える貝の世界にもいろいろな問題がひそんでいます。環境の変化で貝はどう変化してゆくのか・・・・これからも見守っていきたいと思います。
わたしのライフワークの「貝の世界」のおはなしでした。
  どんぐりつうしん変集長  谷口優子
 

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2007年8月16日 (木)

お祭りだ!

夏祭り、千葉市では夏に大きなお祭りが3回あります。ひとつは千葉港のところで「花火大会」、「千葉神社の大祭」、最後に市がする「親子三代夏祭り」、最初はどうして3回もあるのかよくわからなかったのです。地方でいるとそこの氏神様のお祭りだけ、でも、千葉市民はどちらかというと雑多な人たちの集合都市なので、千葉神社のお祭りを市民のお祭りにはできないのです。
 ところで、今日東金市立図書館からの帰り、バスを降りたら偶然その千葉神社の御神輿に出会いました。
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 道の端で「和楽太鼓」と書かれた幕をはって太鼓を叩いている人たちの乗っている車が停まっています。全部女の人で、学生のような人もいました。千葉神社のお祭りは「妙見大祭」といいます。北極星と北斗七星、北辰をまつっていて、願かけの祭です。御神輿は肩にかけないで頭上で「もむ」のはすこし他と違うようです。女の人も側にいましたが、男の人ばかりにみえました。少し離れたところに「天狗」がひとりで立っていて、まわりを見回していたのが、ちょっとおかしかった。その側にはだれもいなかったのは?遠くから太鼓の大きな音がきこえてきます。側にいってみたら、これは先導役の太鼓、二段打ちで«ダダン ダダン»と鳴っていました。ちょっと小さな子が叩いたので写真を撮ろうと思ったのですが、すぐに止めてしまったのは残念でした。今年は880回の大祭、敗戦の翌日の8月16日もおこなったというから、やっぱり戦争という厄おとし、平和の願をかけたのだとおもいます。
 それにしても、今日はほんとに暑かった。ちょっと雨乞いの願もかけました。


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海からのおたより07.8夏休み講座

8月15日のつづき。
 貝ってどんな生きものでどこにいるのかおはなししましたが、貝はかならずしも海にいるだけとはかぎりません。

 海からのおたより2007年8月・夏休み子ども講座 2の巻



  陸貝のはなし
かたつむりのように水の中で生活しない貝を陸貝といいます。カタツムリ(マイマイ)は同じ種類でも地方や場所によって色や形が微妙にちがいます。
こどものころ、町内の友だちの家とわたしの家にすんでいたかたつむりの種類がちがってびっくりしたことがあります。友だちの家にいたミスジマイマイは我が家にはいませんでした。そのかわりわたしの家にはおおきなヒダリマキマイマイがたくさんいました。
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数十メートルしかはなれていないおたがいの家の間でなにがちがうのかふしぎのおもったことがありました。
こん虫や鳥のように飛ぶことのできないかたつむりはいごこちが悪くてもすぐには移動できません。まわりがしめってえさがとれるようになるまでひたすらがまんします。夏の暑さやかんそうには「から」の入り口にうすいまくをはってたえます。冬の寒さには冬眠します。どんなに苦しくても自分で移動しない限りはかたつむりは動くことができないのです。かたつむりの種類を調べるともともとの土地がどんな環境だったのか知ることができるそうです。かたつむりは何世代も何世代も狭いところで命をつないで生きてきたのです。ですから家を建てるために土をもったり、けずったりするとかたつむりはたちまちすめなくなってしまいます。1本の木を切っただけでくらせなくなるカタツムリもいるのです。また、ビオトープのように人工的に作った池のまわりなどに生きものを呼ぼうとしてもカタツムリだけは集まってくることがありません。
 「から」のないナメクジも実はまき貝のなかまです。ときどきカタツムリのからがとれたものだと思っている人もいるようですが別の種類です。貝が海から陸に進出してついには「から」も退化してしまったというもっとも進んだ?なかまです。コウラナメクジという「から」のあとがわずかに残る種類もあります。ナメクジは身近でもっともきらわれる貝ですね。
ー明日に続く
 (どんぐり変集長  谷口優子)

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2007年8月15日 (水)

海からのおたより07.8夏休み講座

 とても暑い日が続きます。陸だけでなく海の生物もこの暑さでどこかに潜んでいるかもしれません。海の生物にとって夏の海は人間であふれかえり、受難の毎日になります。マナーを守って自然と仲良しになりましょう。
「海からのおたより8月号は3回に分けておおくりします。

海からのおたより2007年8月・夏休み子ども講座 1の巻



 わたしは子どものころから貝を集めてきました。麦わらぼうしのかざりについていたちいさな貝、真夏の海でひろったサザエ・・・それはどんな生きものであるかわからなかったけれども、海からとおくはなれて育ったわたしのたからものでした。
今月のおたよりはいつもとちょっとちがった貝の世界をご紹介します。
 
貝ってどんな生きもの?
 貝のなかまはひとことでいうと、背骨をもたずにやわらかいからだを「から」でまもってくらしている生きものです。むずかしいことばでいうと無脊椎動物(むせきついどうぶつ)の中の軟体動物(なんたいどうぶつ)というグループの生きものです。「から」のないウミウシやイカ・タコもひろい意味では貝のなかまに入ります。貝は地球の上の生きものでこん虫の次に種類が多く、およそ10万種類いるといわれています。
わたしたちにとっていちばん身近な貝といえば「食べる貝」です。おみそしるのアサリやおすしのネタのホタテガイ・・・・。貝は独特の歯ごたえとうま味をもっています。海の中ではおいしい貝のまわりは敵だらけ。ふたを閉じて敵からからだをまもっているのです。
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「アオウミウシ」
 からをもたないウミウシはきれいですが食べてみるととてもまずいそうです。岩場のしおだまりなどでときどき見かけますが、自分のからだをめだたせて敵から身をまもっています。「ここにいるけれど、ぼくはまずいよ〜」といっているようです。この色はたしかにおいしそうには見えませんね。タコは「から」はありませんが軟体動物の中でもっともかしこく、動きがはやいのでにげるのが得意です。
貝の肉には毒がないので食べようと思えばどんな貝でも食べられますが、えさや海水のせいで内ぞうに毒をもつことがあるので注意が必要です。
 
貝はどこにいる?
 貝はわたしたちの身の回りのあちらこちらで見つけることができます。
海ではもちろん、川や池、沼、田んぼでも見ることができます。わたしたちのまわりにも貝はいます。ホタルの幼虫が食べるカワニナ、田んぼにはタニシがいます。琵琶湖や霞ヶ浦では“淡水パール”を作るイケチョウガイなども養殖されています。
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 「スクミンゴガイ」
 また、食用になる、と南アメリカから持ち込まれたジャンボタニシ(スクミリンゴガイ)は日本で売れなかったので、すてられて南日本のたんぼで稲も食い荒らすようになってしまいました。ジャンボタニシは田んぼや川から海に流れてきて九十九里浜でもときどき拾えます。図鑑にものっていないのではじめて見た時は何の貝だかわかりませんでした。
 淡水にいる貝は黒っぽい色でしかも皮をかぶっています。地味なものばかりですが飼いやすいので観察してみるとおもしろそうです。
 海も水辺もないわたしの家のまわりにも貝はいます。
かたつむり=でんでんむしとよばれる陸貝のなかまです。
 ー明日につづく (どんぐり変集長 谷口優子)
 

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2007年8月14日 (火)

カッソン家再登場

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「インディゴの星」
ヒラリー・マッカイ
冨永星・訳
小峰書店 本体1500円




 前作「サフィーの天使」のカッソン家、両親は共に画家だけれど、一緒に暮らしているのはママのイヴ。あいかわらず家事が苦手で今の日本でいえば育児放棄もいいとこかも。育児放棄といえばパパはロンドンにスタジオがありほとんど帰ってこない。長女キャデーはロンドンで大学生、優しくてたくさんのボーイフレンドをふることができない。次女サフィーは前作の主人公でほんとうは養女。事故で死んでしまったママの妹の子どもで、車いす生活の親友サラ共々積極的で中学校一番に目立つ子ども、長男インディゴは繊細で気が優しい、そして、末っ子ローズ、生まれながらの画家といってよいほどの才能があり、メガネが嫌いで悩んでいる。この物語はインディゴがインフルエンザから腺熱にかかりほとんど一学期学校を休むところからはじまる。休んでいたら透明人間になったような気分、病気になる前は旅人だったように思う。じつはインディゴは学校でいじめにあって密かに悩んでいた。ある日アメリカから転校生トムが入って来る。トムもまた、母親が家を出て行き、引き取られた父親が再婚して淋しく、人間不信になっていた。そんなトムは悪ガキたちのいじめの格好な的になってしまう。そのことをを知っているのはローズだけでとても心を痛めている。ローズが心を痛めていることのもうひとつに両親のことがある。ほとんど家に帰ってこないパパを心配して、インディゴのこともあり、パパになんとか帰って欲しいとあの手この手を考える。トムとインディゴは友だちになるが学校でうけているいじめはなかなかやまない、ローズのパパが戻る作戦もうまくいかない、ママは相変わらず夢見る人のように現実的でなく、お金にうとく子どもたちは食べるものにも不自由な生活をおくったり、けれども一家は決して暗いせつないだけではない。みんな強烈な個性があり、悩みながらも正直に精一杯自分であろうとしている、そんな不思議な魅力のある物語は読む人の心をうつ。読んでいるうちに自分自身もこの一家のひとりになったような暖かい気持ちになる楽しい本だ。

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2007年8月13日 (月)

夕暮れのマグノリア

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「夕暮れのマグノリア」
安東みきえ
講談社  本体1300円



 表題から漠然とポール・トーマス・アンダーソン監督、脚本の「マグノリア」を思いながら読みはじめた。でもちがった。「マグノリア」はモクレン・コブシ、タイサンボクの総称だという。ハクモクレンかなと思ったが、作中おじちゃんのことを語るところで『初夏だったんだろう・・・』(P200)というフレーズがあり、オガタマノキにいきあった。神道思想の招霊「おぎたま」から転化したとのこと。そう、夕暮れなのだ。私の目の前に「マグノリア」がゆっくり開いていくのがみえてきた。
 主人公の灯子が中学校に入学してからの一年間、美帆、凛、千夏、関田、きい、おばちゃん、6人との関わりが語られいる。背景には「マグノリア」と「おじちゃん」。おじちゃんは7年前に亡くなっている。6人も何かのかたちで現実ではない向こうの世界をかいまみてしまった人だちだ。そして、その人たちと一緒の時間をもったことで、灯子はママのにいさんであったおじちゃんや、ネコのムンク、パパやママ、そして、見えないものでも信ずることができた。『けっしてひとりぼっちではない、だれもいないと思ってはいけない』昔、幼い灯子におじちゃんはそうささやいたのだ。
 私も、夕暮れ時は好きだ。特に夏の夕暮れ、暑さも幾分静かになって、太陽は空の下に沈んでいく。『また、あした。』

 明け方3時、外にでて流星群をみた。風が少し吹いていて、昼の暑さはない。時々セミがジィーと鳴く。しばらく空を見上げていたら、若い男の子がひとりでとおりかかって、私を見て驚いた。“流星群をみているのよ。”黙ってしばらく空を見ていたけれど、“じゃぁ”といって行ってしまった。しばらくするとスウーと星が流れる。昔、祖母の背中で流れ星を見たのを思い出した。“あれは、どこかで人が亡くなったのだよ"静かな祖母の声。
 7つまで数えて家にはいった。

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2007年8月11日 (土)

怖くないおばけの話

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「学校のオバケたいじ大作戦」
ー内科・オバケ科  ホウズキ医院ー
富安陽子・作
小松良佳・絵
ポプラ社 本体950円




 おとなだけでなく子どもはオバケ話が好きだ。いや、おとな以上かもしれない。でも、幼ければ幼いほど最後にはどこか安心できる結末になっていないと嫌がる。年齢が高くなるにしたがって、オバケというより妖怪、それも普通の人が抱えているような深い闇をみてしまうような物語に心ひかれるように思う。ただ、ちょっと気になる傾向はオバケというよりホラー、それもかなりグロテスク?な物語が出版され読まれている。魔法しかり、どう表現したら良いのだろうか、ぐちゃぐちゃした怨念めいた魔術的なものが描かれているものが多いように感ずる。それだけ生きている現実世界が複雑になってきているのに、思考がおいつかない、言語化、物語化ができなくなっているのかもしれない。
 まあ、そのことは別の機会に譲るとして、富安陽子の作品の世界は明るく、人間的だ。この物語のシリーズもオバケはでてくるがどこか憎めない存在、そして、人間の世界のことだ。オバケの医者、ホウズキ医院の鬼灯先生がキョーヘーの学校にあらわれる。カゲクイというオバケがキョーヘーの学校にいる、退治しないとカゲクイだらけになっていまうと言う。カゲクイは人間の知識を食べるから、取り憑かれたらいくら勉強してもテストは0点だと言う。さあ、子どもとしては大変なことだ。昆虫系のオバケ、そして、学校が舞台、勉強、テストが0点、かなり現実的なもので笑える。しかも、最後には子どもの遊び「かげふみ」はそのカゲクイの幼虫退治だったとか、そんなもっともらしいオチまで書いてある。
ルビもふってあるので、カタカナが読めれば充分楽しむことができる。暑い夏はオバケと遊ぶ、こんな軽い読み物も良いのではないだろうか。

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2007年8月10日 (金)

ゆうれいになった少女の物語

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「アイヴォリー」
竹下文子・作
坂田靖子・さし絵
ブッキング 本体1400円
(1994年理論社から刊行)



わたしの名前はアイヴォリー・ホワイト。少し前は塚原美月だったり、両親にはみっちゃんと呼ばれていて、友だちはミッキーと呼んでいた。生きていた時は。つまりわたしはもう死んでいてしまって幽霊になっている。この管理事務所で働いている八代さんだけには(もちろん八代さんは幽霊ではない)わたしが見える。八代さんはいつも「I hear their gentle voices calling・・・」と口ずさんでいる。わたしはここで何をするまてでもなく、あちらこちらをのぞいたり、空を見上げたり、墓参に来る人を見ていたりの毎日をおくっている。ある日男の子の足音がして、その男の子はわたしの姿が見えたし、話も出来た。そんなずはない、男の子は生きている人間だし、わたしは幽霊なのだ。
 ここの墓地の幽霊はどうしていつの間にかいなくなってしまうのだろうか。消えてしまうということは今度こそ確実に向こうの世界にいくことなのだ。無限の闇の世界、わたしは行きたくない。よくわたしと話をするカトーさんもいなくなり、ある日八代さんも倒れてしまった。ここにいる幽霊は死んでしまってすぐに向こうの世界にいくことができない理由がある。 男の子、光介くんはこの墓地からわたしを連れ出そうとする。幽霊はだれも生き返ることができないというと、「それなら生まれ変わるのだ」と言って。
 この本のイラストのようにはかなく、秘密をかかえている幽霊アイヴォリーの哀しみが読者の心に伝わってくる。それは、この物語がアイヴォリーの物語であると同時に美月の物語でもあり、あなたの物語でもあるからだ。決してあかすこともなく、できずに彷徨い続ける魂、でも、生きていればその魂をすくいあげてくれる人がかならずあらわれる。どんなにつらいことがあっても塚原美月でいれば、だれかのために何かをすることができる。
 この物語は決して怖い物語でも、暗い物語でもない。作者は魂の救済の物語を語ったのにちがいない。

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2007年8月 9日 (木)

故郷はとおくにありて・・・

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両親のお墓参りに出かけてしばらく留守にした。お墓のあるところ、今の上越市、旧高田市に7年住んだので、故郷はどこかと聞かれれば高田市と答えることになる。高田は夜桜と蓮の花で有名、その他はスキーの発祥地、上杉謙信の居城春日山、そして、児童文学では小川未明の出身地でもある。この写真は高田城趾から「なんばやま」を撮ったものだけれど、この山は作品「牛女」の舞台でもある。
 静かで落ちついた城下町、水と緑が多く、いまでもゴミのないとてもきれいな街だ。この静かさと変わりなさ、そして雪という宿命的な暗い冬が若かった私には耐えられなかった。いま思っても、どうしてあんなにひどく抵抗したのだろうか。一時は澱んだ沼の底のように思い、ここにこのまま暮らすなど耐えられないと思い込んだ時があった。
 おとなになって時々訪れる私に街は変わらない、なにもいわない。桜が咲き、水の音があふれ、ツバメやコウモリや鳶が空を舞い、いろいろな自然のものたちがあふれ、気がつくと秋の気配、あっというまに霙、そして、来る日も来る日も、空から雪、そのなかを人々は逆らわず辛抱強く暮らしていく、この街に限らず、それが私たちの故郷だ。
 この間の地震、でも地震以上に怖いのは原発と人たちはいう。今回は海へ行く時間がなかったけれど、そこにも私たちの故郷がある。
 いつでも変わらないであって欲しいと願う故郷がある。
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2007年8月 4日 (土)

あいうえおパラダイス( あ)( か)

 昔から子どもは言葉遊びが大好き。3歳位、わざとおとなが嫌がる言葉を言ったり、反対言葉を言ったり、反抗期といっしょになってそんな言葉をつかいながら、言葉をひろげてきました。いまの子どもはテレビのや「おわらい」の影響もあって言葉遣いが巧みです。駄洒落も良く言います。
 この2冊の本はそれがたんなる言葉遊びでなく、文、お話になっています。言葉遊びなので、お話といってもナンセンスなお話で、挿絵も楽しく、ユーモアたっぷりの本になっています。1冊の中に5つの短いお話がはいっています。声をだして読んだ方が楽しい。
1巻は(あ)行、2巻は(か)行、続けて刊行される予定とのこと、こんなお話になるようです。
*あるひ あひるが あるいていると
*からすと かばの かいすいよく
*さかさまやまの さくらでんせつ
*たぬきの たろべいの たこやきや
*なぎさの なみのりチャンピオン
*はるは はこべの はなざかり
*まくわうりと まほうつかい
*やさいぎらいの やおやさん
*らった らった らくだの  らっぱ
9784652002919
あるひ あひるが あるいていると
ーあいうえおパラダイス(あ)ー
二宮由紀子・作
高畠純・絵
理論社 本体1000円
9784652002926
からすと かばの かいすいよく
ーあいうえおパラダイス(か)
二宮由紀子・作
市居みか・絵
理論社 本体1000円


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2007年8月 3日 (金)

子どもに読書の感想を伝えましょう

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台風の余波なのだろうか湿った風が吹いて、暑いというかベタベタと気持ち悪い。谷川俊太郎さんと林光さんの詩と音楽の会にちなんで、会留府のことについての新聞記事がでた。もうすでに毎日新聞が取り上げてくださっていて、今回は選挙と高校野球が一区切りがついたので、朝日新聞が取り上げてくださった。会留府はいままで広告を出したことが一度もない。市内に一つきりの専門店として続けてきたものだから、いろいろな意味で応援をしてくださる方がおおく、ありがたいことだと思っている。朝からしばらくご無沙汰をしてしまった方が、新聞を見たと電話をくださったり店をのぞいてくださった。あらためて新聞の力はまだまだと思った。写真がかなり大きくでたので、と、こんなことならちょっとお化粧すればよかったね、とは後の祭り。でも、きれいに良く撮れている。じつは、私は撮られるのは苦手、勢いと弾みがないとなんだかんだとにげてしまいたくなる。
 電話である人にいわれた。“子どもたちの活字離れがすすんで大変だけれどがんばってくださいね”でも、いつもいうことなのだけれど、子どもたちの活字離れを心配をするのはこれからではないかと思う。いまの子どもたちはかならずしも本を読まない、嫌いなわけではない。そんな意味では変わっていない。むしろ、ここ10年のあいだで変わったのは子どもを取り巻く環境だとおもう。そのなかで育ってきた人たちが子どもたちを育てていく。今のおとなは昔のように本や新聞を読もうとしなくなった。情報はPCどころか携帯電話で取ってくる。本や新聞は読まなくても生きていけるけれど、携帯がないと仕事ができない、平穏に生きていくのが難しいという変な生活になってしまった。そうやって育った人がおとなになって日本を動かしていく、次の世代を育てていく。どこの部分を残し、どこの部分をかえていくのか、こと、本と読書に関していうと、読書の世界を子どもたちに手渡ししていくおとなをふやすことにつきると思う。
まず、この夏おとなは最低1冊読みましょう。その感想を子どもに伝えましょう。別に話し合わなくても良いのです。親は子どもに自分の読んだ本の感想を伝えましょう。先生は教え子に、それこそ、携帯を使っても良いことにします。読んだ本の感想をメールで送る。それをしばらく続けてみましょう。
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          (天徳寺の夏)

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2007年8月 2日 (木)

モグラの生活

  『モグラの生活』
皆さんはモグラやネズミは好きですか。かわいいですよね?
 私は、たまにモグラやネズミやコウモリを捕まえると、その毛並みに見とれました。ま、そんなに大きなのじゃなかったからかも。特にモグラの手触りは最高です。子供は大人と違って、素直にそう感じると思います。
 さて、私は同じ題名の絵本を2冊持っています。ひとつは古い本ですが、岩波書店の「ぼくのさんすう・わたしのりか」の1冊で、『モグラのせいかつ』です。文は、動物生態学者の今泉吉晴、画は、薮内正幸です。あまり知られていないモグラの生活を、わかりやすい文章とリアルな質感の絵で書いた傑作です。私は、これ以上の絵本は出ないと思っていました。土の中のモグラの写真は撮れないからです。
 ところが出ました。新刊です。「たくさんのふしぎ」の8月号、『モグラの生活』(福音館書店)です。文と写真は飯島正広です。        
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 モグラの生態を調べるには、長い年月が掛かります。モグラを捕まえるのにも、それぞれの工夫がいります。飯島は罠を使いました。トンネルに仕掛けた罠にモグラがかかると、目印の棒が下がります。でも最初は棒が下がっていても、中は泥が詰まっているだけでした。罠を増やし、7日目にようやく捕まえたそうです。       
 観察にも工夫がいります。この写真絵本の独創的なのは、観察用トンネルです。発泡スチロールのトンネルの内側に泥を塗りました。手前はガラスなのですが、ガラスをはずしても逃げません。「体が、なにかに触れていないと、こわいようです」。今泉も同じ性質を利用していました。とにかく観察用トンネルでようやく、モグラの写真が撮れたのです。次にモグラの巣の写真を撮りに出かけます。今泉もモグラ捕りの名人でしたが、巣を捜す名人もいます。飯島は、相良直彦というキノコ学者に依頼しました。モグラノセッチンタケというキノコの下に巣があるのだそうです。巣の中を内視鏡カメラで撮った、赤ちゃんモグラの写真もあります。6年かけた傑作です。
 なお今泉は、動物写真を高く評価しています。「動物写真という世界が、動物学とは別の分野として発達してきている。動物写真はとにかく動物を見なければ撮れないでしょう。しかし、動物学というのは直接生きた動物を見なくてもできるものだから、動物学者は意外にも動物をあまり見てないのですね。動物写真のほうが「見る」という事では先行してきたと思うのです」。これは、古い本ですが、今泉の『空中モグラあらわる』(岩波ジュニア新書)の文です。モグラに限らず身近な動物や人間への、鋭い観察眼と警句が満載の本です。といっても今泉は、別にむずかしい事を書いてる訳ではありません。2・3紹介しましょう。
  雑木林の小道には、必ずそれを横切るトンネルがついている。踏み固められてわからなくなっているが、人に踏まれながらも、直し直し維持されてきた、モグラがどうしても通らなければならないトンネルです。それを見つける名人芸。ゴム底の運動靴で歩いて、足の裏の感触で知るのだそうです。私の体験からもうなずけます。
 そういえば、禅では掃除の修行をすると聞きました。毎日、庭の草をむしり、落ち葉を掃く。それを極めると、草の芽が出ただけで、メリメリと音がし、枯れ葉が1枚落ちただけで、ズシンと音がする。冗談はさておき、モグラを捕まえるのも名人芸。単純明快、スコップを持って待つのです。細い棒でトンネルの天井にいくつか穴を開けて上からストローを1本ずつ差し込んでおく。モグラが来るとストローに触るので、ストローがポッポッと揺れる。そこでスコップをまずモグラの後方にグサリと打ち込む。するとびっくりしたモグラはバックで逃げる。前のほうは、あとからもう1つのスコップを入れてふさぐ。モグラは電車と同じです。トンネルというレールを走る。だから電車のように前後同じ形で、前進後退します。鼻で探りながら前進し、尻尾で探りながらバックする。でも、音が後ろのほうからしてもあとずさりして、ボンとスコップにぶつかるのはなぜでしょう。 モグラにすれば、前には何があるかわからない。でも今通ってきた後ろにはないはずだ。そう思うのではないでしょうか。私の想像ですが。
 さてモグラの飼育です。モグラはトンネルの壁に体が触れていると安心します。明るくてもいいのです。ここで今泉は、独創的なトンネルを作りました。なんと金網でトンネルを作ったのです。これで目の前で、モグラの生活を観察できます。「空中モグラ」の発明です。ただ金網の場合は、自分でトンネルを掘れない、トンネルシステムの広さを選べない、という限界があったりして、本当にちゃんと飼えているのか、心配は残ります。バーゼル動物園のヘディガーは、それを判断する一番の目印は、動物がそこで繁殖するかどうかだと言っています。環境に満足してはじめて動物は繁殖する、子孫を残してもいいと判断するという考え方です。この考え方を、今の日本人に当てはめると、少子化は当然でしょう。子供を育てる環境ではないと、私は思います。 今泉は、それが壊れているのが家畜だと言います。どんな条件でも子供を生んでしまう。人間という強力な敵がいても、餌を食って、どんどん子供を生んでいる。人間から見れば、動物の野性的な性質を壊さないと、家畜にできない訳です。
 これを人間に当てはめると、安価で安定した労働力供給を目標とした、少子化対策は、人間の家畜化に、拍車をかける事でしょう。                       (高橋峰夫)

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2007年8月 1日 (水)

 BLUEBACK ブルーバック

Blues


「フルーバック」
ティム・ウィントン作
小竹由美子・訳
橋本礼奈・画
さ・え・ら書房 本体1300円




 オーストラリアのロングボード入江にジャクソン一族は暮らしていた。捕鯨にはじまり、100年以上も昔から一族は生きてきた。まわりは全部国立公園、今ではエイベルと母親だけが住んでいる。父さんは真珠とりをしていたが、エイベルが2歳のときイタチザメにやられ、遺体も発見されなかった。エイベルの母親は男のようになんでもする。機械いじりも得意で、トラックも発電機なども自分で整備してしまう。魚をとったり野菜や果物を栽培したり、アヒルやニワトリを飼って卵をとり、ミルクを得るためにヤギも飼っている。電気はきていないのでテレビもなく、雨水を使い、森を歩いたり、海で泳いだり、エイベルはこの母親との生活に満足していた。ある日、入江に住む巨大な青い美しい魚ブルーバックに出逢い魅せられる。そして、成長したエイベルは都会の学校に進学して、海洋学者になり世界をとびまわる。入江に残った母親ドラには、リゾート計画や貝などを根こそぎ取ってしまう漁師、(アワビの密猟者と戦うところはどきどきしてしまう)、タンカーの座礁などいろいろな問題がおしよせる。ドラは海を救うためにある決心をし、その志はエイベルに受け継がれていく。
本の題名だけからだと、魚の物語と思うが、この魚ブルーバックはエイベルと母親ドラの希望の象徴だ。むしろ、この物語は海を愛した女性の生涯の物語といえるのではないだろうか。もちろんちがうのだが、私はこの物語を読みながら「沈黙の春」の作者レイチェル・カールソンのことを思い出していた。
 人は海で生まれたという。また、海は私たちの揺りかごともいう。いまでもどこかの海でブルーバックは泳いでいるにちがいない。

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